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ご挨拶:2025年11月を迎えて
再起第3回目の旅を無事終えました。旅の施行日と決めた10月26日(日)の前前夜に王太后陛下がご崩御なさりました。土曜の朝にその悲報に接し、翌日曜の26日に悲しみを心に抱きながら、旅を行いました。
王太后陛下ご追悼の辞
シリキット王太后陛下へのご追悼の思いを述べさせていただきます。
王太后陛下は、故プミポン国王ラーマ9世陛下とともに、長らく、タイ王国の旗頭として、国民の敬愛の的でいらっしゃいました。
思えば、まだ日本でタイ国については何も知らずに暮らしていた私にとって1963年夏、ラーマ9世陛下ご夫妻のタイ日親善のための日本ご訪問はタイ国を知った「はじめ」でした。テレビや新聞で国王陛下ご夫妻の素敵なお姿に接し、お二人のロマンスを読んで、魅せられました。当時、私はインド伝統的社会については学んでおりましたが、東南アジアについては、何も知りませんでした。それが、翌年インドへ留学し、そこで知りあったタイの青年と結ばれ バンコクで暮らすことになったのです。
当時の東南アジアは、西欧の宗主国からの独立問題を抱えた国々の集まりでした。インドネシアは独立し、カンボジアは内戦状態、ゲリラ問題を残して マレーシア連邦がやっと成立し、シンガポールはまだ独立国家になっていなかった頃です。ベトナムは南北に分かれ、その間の戦闘が東西の冷戦の局部戦争となっていました。私がインドに旅立ったのは19647月で 米軍によるベトナムの北爆が始まったのは 8月です。
フランスから独立したラオスは分裂を続けたまま、1970年大阪万博に国王ご夫妻が行幸されましたが、翌年に王室は消滅、ラオスはパテトラオ(ラオ愛国戦線)の治める社会主義国家となりました。ベトナム戦争は1975年5月には終結。米軍は退去して、ベトナムは北ベトナムのもとに社会主義国家として統一されました。 周辺の国々の諸門題は、常にタイに影響を与えました。特にべトナム戦争終結前後は、優勢になった社会主義勢力のゲリラ活動がタイ国南部、東北部で盛んになり 国軍、警察,民兵、村人そして ゲリラ側の双方に多大な犠牲者が出ました、1982年末にはゲリラの投降と体制側の受け入れ制度も整って、流血なしに一応の終結を見ました。
およそ20年にわたるこの年月をふりかえると、確かに「嵐と怒涛の時代」でした。タイ国民が苦難を耐えて、あの時代を生き抜くことができたのは、どんな危機に際しても、タイ王室ご一家が旗頭として先頭にお立ちになり、その不動のご姿勢に国民が従ったからでした。南で分裂問題があれば そちらにご一家で御行幸なさり 民の不満に対処なさりました。故プミポン国王ラーマ9世陛下の治水へのご慧眼は鋭く、そのご忠告で造られたダムと治水体制は国の誇りです。シリキット王太后陛下は既存のチェンマイ離宮以外に南部のナラティワート、東北部のプーパーンなどに建てられた離宮をセンターに、現地での伝統織物やその他の手工芸の復活と開発にご尽力なさいました。北部の山岳民族の阿片栽培を他の有益な植物栽培に代替させ、森林伐採も抑えて、タイ国の自然環境保全への努力も高まりました。 王妃陛下(当時)は王室の庇護のもとにあった民間の諸団体に呼びかけ、会議を開き、皆が協力して国のために働く機会を作ってくださいました。国の危機に自分たちの力でできることはやろう! 一介の官吏の妻ながら、私もシリキット王妃陛下(当時)が名誉会長をお勤めになり そのご庇護のもとにあるタイ王国ガールスカウト協会(サマーコム・プー・バンペン・プラヨード)及び汎太平洋東南アジア婦人協会(The Pan Pacific and Southeast Asia Women’s Association of Thailand Under the Patronage of Her Majesty the Queen) の理事として、 王妃陛下の提唱なさる活動の一端に加わることができたことを感謝しております。時間にとらわれず即座に会議を招集なさる王太后陛下の生き生きとしたご声咳に接する機会をいただき、ユーモアのあるお話ぶりに魅せられ、楽しく働いた幾年かの思い出は、今でも 私の生きる力となっております。
この歴史をもとに、今のタイ社会は存在します。 シリキット王太后陛下はこれからもタイ国民に敬愛され、その胸中に輝き続けられることでしょう。 謹んで哀悼の意をささげながら、その念を強くしております。
旅のご報告
今回の旅の訪問先がカトリック教会、回教のマスジット、タイの仏教寺院と、全て礼拝所であったことはご逝去間もない時の私たちの心を静め、整え、助けてくれたように思います。感謝です。
旅の待ち合わせはエカマイ文部省売店前に6時半。早すぎる時間なのに、今日は遅れる方は一人もいませんした。全員5人で揃って、RBSCでサンドイッチの朝食を受け取り トイレもすませて、アユタヤ―に直行しました。アユタヤーの島の西北、チャオプラヤー河畔に立つ聖ヨセフ教会が最初の見学地です。下見の際に「ミサは9時には始まるから、参加したいなら、絶対遅れないように・・・」と教会ガイドから注意されましたが 9時前に到着できました。
尖塔下に小さな薔薇窓を認めて 聖堂に入ると 高天井の下に木のベンチの列。両脇の窓のステンドグラスが朝の光を受け止めて 輝いています。 会衆は皆喪服でした。まずは、教会長老らしき方のご挨拶、聖歌伴奏のオルガンを弾く女性もタイ語です。一行中唯一のカトリック信徒である中村理浩君を「見よう見まね」で、信者の方たちの礼拝の邪魔にならないように努力しました。何回かの聖歌合唱の後、前方の祭壇脇から緑の長衣をまとった侍者の少年たちの行列が入ってきました。神父さまが会衆の座る座席近くまでいらして 聖水を散布なさいます。献金袋がまわされ、祈祷があり、聖体授与の式があり、会衆全員で立って歌う頌栄歌になりました。メロディーも雰囲気も私の属するキリスト教新教での礼拝に近しく、キリスト教旧教新教に共有される伝統を感じました。神父様が大手を広げ、祝福を与えてくださって、ミサは終わりました。
神父さまは壇上を去らず、王太后のお話に入られました。かつてラーマ9世陛下ご夫妻の欧州行幸の際、ウァティカンで随行の女官長の服装が不適切であったので直されたという内輪話めいたエピソードはとっておきのご馳走であったのかもしれません。 会衆の受けはよくなかったようで、一人去り 二人去り・・・とうとう誰もいなくなりました。
私たちは祭壇に近づいて 「ゴルゴダへの道行き」の挿話画をみようとしました。ゲッセマネの夜 ユダの裏切り ピラトの裁判, 十字架を背負ったイェスさまのゴルゴダへの道行き画13枚はカトリック教会伝統の荘厳法で、新教の礼拝堂にはありません。これは私でも説明できると思ったのですが・・・ 「貴方たち どこからいらっしゃいました?」 神父様のお声です。
神父様は祭壇両脇のナライ王時代の二人のフランス人神父の棺について説明され、 続いて 第二次大戦中 ピブン内閣により迫害され、ブリラムの牢獄で亡くなったタイ人神父の話になりました。最初のお二人は既に聖人として認定され、 タイ人神父の方は「もうしばらくで認定」だそうです。 アントニー神父はベトナム系ではなく 華僑系だとのことでした。
 Photo By Mr. Masahiro Nakamura |
聖ヨセフ教会を出たのは 予定より遅く10時45分。チャオプラヤー河に沿って下り ポルトガル部落の教会堂地下に残る信徒たちの遺体に敬意を表しました。河を渡り 左岸のワット・ヤイ・チャイモンコン前で 伝統の牛そばを軽く一杯。全員がニ杯目をスープなしの「ヘーン」で注文したのが美味でした。
 Photo By Camera: Mr. Junya Ichimura a good passer photographer |
17世紀のアユタヤ―でペルシャ商人の頭であったアーマド氏の墓はラーチャパット大学内で発掘され モスクが建てられました。アーマド氏の家系はアユタヤ―、さらにバンコクで回教シーア派の宗教指導者チュラモントリー職を継いでいます。回教のもう一つの派はスンニー派ですが、ジャヴァ島、マレー半島からの移住者を中心にスンニ−派のチュラモントリーがいます。
ラーチャパット大学は勤労青年にも門戸を開いた大学です。26日は体育科の卒業式した。校庭は卒業生、家族、友人たちで一杯で、 車も乗り入れられません。歩くが勝ちです。歩けるようになって良かったわね。レヌカーさん! というわけで、歩きました。 回教徒から仏教徒に転じたアーマド氏の子孫は18世紀のアユタヤ―崩壊の危機を生き延び バンコクで新王朝樹立に活躍します。姓はブンナーグ゙となりました。本日の午後は、19世紀バンコクでラーマ5世の摂政になったチュワン・ブンナーグ゙氏建立の寺院ブッパーラームを訪ねます。
アユタヤーでの最後の訪問地はスワンダーラーム寺でした。布薩堂に並ぶヴィハーンにラーマ6世はチャクリー王家と縁深いナレースワン王の挿話を描かせました。著名な「象上の一騎打ち」の対面に描かれた天人群像をご紹介します。英国ご留学中にヨーロッパのキリスト教会堂壁画に描かれた天使像をご覧になったラーマ6世ならではの泰西名画風アイデアです。
 Photo By Mr. Junya Ichimura |
キリスト教が旧派のカトリック、新派のプロテスタント及び諸新派に分かれていて 回教も大別するとシーア派とスンニー派に分かれていますが、タイの仏教にも二派あります。スワンダーラーム寺は アユタヤ―時代に建てられた古刹で マハー・ニカイ派に属します。 午後見学するブッパーラーム寺は古刹ですが 立て直され、ラーマ4世が親しく創立にかかわられたタマユット派に属します。
バンコクもチャオプラヤー河の右岸トンブリーのバンコク・ヤイに位置するブッパーラーム寺境内も内輪にはキャオ壁に守られて、三棟の建物が立っています。 中央に布薩堂、その左がスリヤウォン堂で 右が壁画で名高いヴィハーンです。
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| Photo By Mr. Junya Ichimura |
布薩堂の入り口で作業していた男たちに聞くと「私たちも外部の者ですが、住職の秘書は副住職で キャオ壁を抜けた最初の建物に住まわれています。行ってみてください。」 丁寧な言葉つかいでした。それにしても、さっぱりした応対だなぁ。 この寺には 犬も猫も見当たらない。 なにしろ、タイの寺にたむろしている寺男、寺女、いわゆる寺に寄食している人たちの姿がまったく見えないのです。
キャオ壁を抜けたあたりで 運よく 若い僧に出会いました。「副住職にお会いしたいのですが・・・」
私の要望を知ると、若僧は僧房の2階へ上がり、間もなく副住職が現れた。年の頃 65から70歳くらいであろうか お坊さんというより 気品のある老人。闊達な方とお見受けした。私が同好の士とヴィハーン壁画を見学させていただきたい旨を告げると 心よく承知してくださった。しかし、「26日は王室からカティナ衣寄進団がいらっしゃるから 別の日にしてくれないか・・・」
そのお口のききかたがあまりにていねいで 感じよく 優しい様子に心打たれて・・・つい申し上げてしまった。「他の日には 皆働いています。わざわざ日本から来た方もいます」と重ねてお願いし、「王室からのカティナ衣寄進式があるのなら 其の日のこのお寺の雰囲気も知りたいでーす」とまで言ってしまった。そして、「3時前に来られるのなら ヴィハーンの壁画の説明もしてあげよう」というところまで漕ぎつけたのですが なんと、その約束に遅れてしまったのです!
3時半頃に「トンブリーに到着しました!」と電話しましたら 「ちょっと具合が悪くて パヤタイ病院へ行く途中」とのことで 驚きましたが 「あの若い僧に頼んでおいたから 説明してくれる。私もすぐ戻るよ。多分 風邪でも引いたのだろう」 とのことで一安堵しました。忘れない内に記しておきましょう。副住職のお名前は プラ・キティヴィモンメティーで、役職はプーチュエイ・チャオアーワート・ワット・ブッパーラームヴィハーン(ブッパーラーム寺住職助役)で 何とタマユット派のトンブリー区僧侶団長です。
お寺に直行しますと、 副住職の部屋の前で待ち受けていた若僧は得度してから10年ということでしたが、何のてらいもなく 自分でヴィハーンの鍵を開け 木の扉を開き 窓を開き 電気もつけて 私たちを案内してくださいました。ラーマ三世時代に当時の流行で西洋風、中華風を取り入れて荘厳したという壁画は本生話を描いたもので 往時の色彩は豪華燦然でしたでしょうが 今は時とともに渋派手というか 落ち着いた色調になり 日本人好みと言えなくもありません。壁画に「奥行」を与えているのは、西洋からの遠近法を使い、何階建てかの豪華西洋館を重ねて描いた手法です。初めて観た私には ただ「深みがある」としか わからなかったのですが 絵に蘊蓄の深いデザイナーの市村潤矢氏にはその背景がお分かりになり 感銘を受けていらっしゃるご様子でした。時をあらためて 説明していただきましょう。
私は 鈴木さま母娘お二人、戸津恵美子さまと一緒になって 兎をみつけて 喜んでいました。 雪菜さんを除いて、3人とも兎年なのですが このヴィハーンの壁画には 花束を持った兎が 随所に描かれていたのです。
若僧のお話では 第二次大戦末期に 布薩堂とサーラー・スリヤウォン堂は連合軍の空爆を受けました。その修理はまだタイが大戦の痛手から十分に回復していない1962年に境界石の基礎 となるルークニミット石球を埋めることから始まります。其の式にはプミポン国王陛下とシリキット王妃陛下がそろって出席なさいました。数ある王立寺院の中で どうしてこの寺院がいち早く修復開始を? という前に 他の王立寺院、特にこの地区に集中しているスリヤウォン卿の父や伯父たちが建立した寺院を調べてみなければならないかなぁ。
まもなく僧侶団の式が布薩堂で始まるので その用意があるからと退座した若僧に従い 私たちも布薩堂にく造り直したものだ」移りました。まずはお堂の外側から重厚な門扉や窓扉を感嘆して眺めていますと、「どれも新しく造り直したものだ」と説明してくださる「しっかり老人風」のお坊さまが現れました。 伺えば 「私がこの寺の住職だよ」ということで、再び「さりげない風」に驚きました。ご一緒に記念撮影をお願いしたのですが それも衣を整えたり 正座なさることもなく そのまま布薩堂のヴェランダでさりげなく 写真を撮らせてくださいました。鉄面皮の私もさすがに ここでお名前をうかがえませんでした。 まさか 住職さまに会えるとは思っていなかったし 副住職にさしあげたお菓子は すでに若僧に渡してあったのです。
このお寺とラーマ4世との深い縁は 下見の際に副住職が下さった小冊子「ブッパーラームの歴史」を読んで知りました。 「写真が出来ましたら 持ってうかがいます」とい私に うなずいて下さった住職さま。 副住職さまとは また別の魅力をお持ちのお坊様でした。近いうちに再び、副住職さまを訪ね、ご様子をうかがい、その中継ぎで住職様にお目にかかりたいと思います。その時には 「花束を持った兎」の謎も解いていただけるでしょうか?
私たちの旅は まだ最終地点に達していません。予定より 2時間は遅れ 夕闇迫るチャオプラヤー岸辺のポルトガル部落につきました。ブッパーラーム寺とは すぐ近くです。 ここの部落の中心は、サンタクルズ教会です。教会までの道は すでに車止めとなり 横丁を歩いて 部落まで行きました。夕7時からのミサの前に聖堂には明りが灯され 門扉も 聖堂の扉も大きく 開いています。 中をのぞくと 青い世界が広がっていました。 今朝の聖ョセフ教会とは まったく違った雰囲気です。 聖トマスの世界だ! インドのチェンナイ(マドラス)で入った青と白に塗られた聖堂の思い出が蘇りました。古い 古い昔! ヴァスコ・ダ・ガマもポルトガルもまだ存在しなかった頃、古代のキリスト教世界の翳を観た思いでした。
レヌカー・M
- 12月5日(金)−6日(土) 日本軍の上陸:プラチュアブキリカン
- 空軍第五隊基地
美しきタイの自然もさることながら、 真珠湾攻撃のあの朝 12時間遅れのタイでは
何が計画され 実行されたのか、 タイ人が知ってることを日本人はあまりに知らない、
学校でも教えていない! この続きは 旅に参加なされて レヌカーから 直接お聞き
ください。 美しい自然の中で広げられた戦闘の事実に迫ります。
ご期待ください。 詳細は home page 旅の広告をご覧くださいませ。
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